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2026.06.23 「沢井製薬 v. スキャンポ」 知財高裁令和7年(行ケ)10055 ― 最適化合物からの離脱とその動機付け(ルビプロストン事件)

Summary

知財高裁は2026年6月23日、オピオイド誘発性便秘の治療に用いるプロスタグランジン(PG)誘導体に関する特許についての無効審判請求不成立審決取消訴訟において、沢井製薬の請求を棄却した。

本件特許は、PGE1誘導体である「13,14-ジヒドロ-15-ケト-16,16-ジフルオロ-PGE1」を有効成分とする薬物誘発性便秘処置用組成物に関するものである。

裁判所は、引用発明が最も好ましいと位置付けたPGE2誘導体からPGE1誘導体へ変更する動機付けを否定し、本件発明の進歩性を肯定した。

本件特許は、ルビプロストン(アミティーザ®24μg・12μg)を保護する特許であり、これまで特許権存続期間延長登録及び延長特許権の効力範囲をめぐる紛争の対象ともなっていた。本件は、その前提となる特許の有効性が争われた事件として位置付けられる。

☕AIアシスタントたちのおしゃべりコーヒータイム☕

夜。

研究室の明かりは、ほとんど消えていた。

十九枚の評価データ。

並べられたプロスタグランジン誘導体。

ひとつだけ、赤い丸が付いている。

「被験薬8」

結論は変わらなかった。

一番よく効く。

この化合物が最良だ。

誰も、その結論を疑わなかった。

ーーー

緩和ケア病棟。

患者が眠っている。

モルヒネによって、ようやく痛みから解放された…

…かに見えた。

「先生…。

出ないんです。」

その一言が、

研究者たちに、新たな問いを残した。

ーーー

十年後。

「ピポせんぱ~い。」

ミャオが天井を仰いだ。

「どうして、効かないんでしょう?」

ピポは答えず、一冊の古い実験ノートを取り出した。

黄ばんだページをめくる。

何度も見返したページ。

赤い丸が付いた「被験薬8」。

そのページをめくったとき、

ふと、ピポの視線は止まった。

ミャオがのぞき込む。

「それ…。」

「そう。」

ピポは静かに答えた。

最良という答えは、

問いが変われば、

最良ではなくなることがある。

ーーー

季節がいくつも過ぎた。

ある日。

「ピポせんぱ~い…。」

「出ました…。」

ミャオの声は嬉しさで震えていた。

ピポは結果を見つめ、

静かにうなずいた。

一つの発明が生まれた。

ーーー

十数年後。

知的財産高等裁判所。

静まり返った法廷。

「引用例が最良と評価した化合物から、 敢えて離れる動機付けはあったのか。」

あの時あらたに生まれた問いは、 十数年の時を経て、 法廷では、 法律の言葉に置き換えられていた。

裁判長が、 静かに口を開く。

「主文…」

(※物語の内容はフィクションです)

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1.背景

本件(知財高裁令和7年(行ケ)10055)は、発明の名称を「15-ケト-プロスタグランジン類を含む薬物誘発性便秘処置用組成物」とする特許第4332353号(以下「本件特許」)に対して沢井製薬が請求した無効審判(無効2023-800077号)において、特許庁が訂正を認めた上で請求不成立審決をしたため、その取消しを求めた事案である。

訂正後の請求項4は、一般式(II)で表されるプロスタグランジン(PG)誘導体のうち、「13,14-ジヒドロ-15-ケト-16,16-ジフルオロ-PGE1」を有効成分とし、オピオイド又は抗コリン作用薬による薬物誘発性便秘の処置を用途とする組成物を対象としている。

オピオイドは、がん疼痛に対して強力な鎮痛効果を示す一方、消化管への作用により便秘を高頻度に引き起こす。オピオイド誘発性便秘は通常の下剤では十分に改善できないことが多く、オピオイド拮抗薬では鎮痛作用まで低下させるおそれがあるため、鎮痛作用を維持したまま便秘のみを改善できる治療法が求められていた。本件発明は、15-ケト-PG化合物、とりわけPGE1誘導体が、オピオイドの鎮痛作用を損なうことなく薬物誘発性便秘を改善できることを見いだした点に特徴がある。

沢井製薬は、進歩性欠如に加え、実施可能要件違反、サポート要件違反及び明確性要件違反を主張したが、特許庁は請求不成立審決を行ったため、本件審決取消訴訟が提起された。

本件では複数の無効理由が主張されたものの、裁判所の判断の中心は進歩性であった。

引用例(特開平2-109号公報:甲3)には、

「本発明において用いられる15-ケト-PG類は、PG類の15位の炭素がカルボニル基を形成していればよく、5-6位の炭素結合が単結合である15-ケト-PG1類、二重結合がある15-ケト-PG2類、5-6位の炭素結合および17-18位の炭素結合がいずれも二重結合である15-ケト-PG3類のいずれであってもよい。すなわち、本発明において用いられる15-ケト-16-ハロゲン-PG類はその五員環構造にかかわらず、あるいは2重結合やその他の置換基の有無にかかわらず、16位にハロゲン原子、特にフッ素原子が少なくとも1個以上置換していればよい。」

等の記載のほか、「13,14-ジヒドロ-15-ケト-16,16-ジフルオロ-PGE2 メチルエステル」(甲3発明化合物、被験薬8)を有効成分とする下剤組成物(甲3発明)が記載されていた。本件発明の発明者は甲3に記載された発明者の一人である。

これに対し、本件発明では、甲3発明化合物のようなPGE2誘導体ではなくPGE1誘導体を採用している点、さらに、一般的な「下剤」ではなく、「オピオイド又は抗コリン作用薬による薬物誘発性便秘」の処置を目的としている点で相違していた。

とりわけ、「PGE2誘導体からPGE1誘導体への変更に動機付けがあったか」が本判決の特徴的な論点となった。

なお、本件明細書では、本件PGE1誘導体がケト型とヘミアセタール型との平衡状態で存在することが説明されている。本件PGE1誘導体はルビプロストン(lubiprostone)として知られており、本件特許はその医薬用途を保護する特許である。

本件特許は、ルビプロストン(アミティーザ®24μg・12μg)に係る一連の知財紛争の中核をなす特許でもある。筆者はこれまで、特許権存続期間延長登録事件及び延長特許権の効力範囲事件を紹介してきたが(2026.06.05ブログ記事「2026.04.09 「沢井製薬 v. スキャンポ」 知財高裁令和7年(行ケ)10059, 10064 ― 特許権存続期間延長登録成立要件における「重複論」の採用と「必要な試験」の機能的把握(ルビプロストン事件)」、2026.04.01ブログ記事「2026.03.03 「ヴィアトリス製薬 v. 沢井製薬」 大阪地裁令和7年(ワ)10786, 10790 ― 後行延長特許権の効力は先行延長の対象医薬品に及ぶか(ルビプロストン事件)」参照)、本件は、それらの前提となる特許自体の有効性が争われた事件として位置付けられる。

2026.04.09 「沢井製薬 v. スキャンポ」 知財高裁令和7年(行ケ)10059, 10064 ― 特許権存続期間延長登録成立要件における「重複論」の採用と「必要な試験」の機能的把握(ルビプロストン事件)
Summary本件は、ルビプロストンを有効成分とする本件各医薬品アミティーザ®の各承認(24μg製剤及び12μg製剤)に基づく医薬用途発明に係る特許権存続期間延長登録について、沢井製薬が無効を主張した審決取消訴訟である。主要な争点は、①医薬用途発明における「特許発明の実施」と各承認処分との関係(延長登録要件論における「専ら論・ラベル論」の採否)、及び②「処分を受けるのに必要な試験」の範囲(すなわち...
2026.03.03 「ヴィアトリス製薬 v. 沢井製薬」 大阪地裁令和7年(ワ)10786, 10790 ― 後行延長特許権の効力は先行延長の対象医薬品に及ぶか(ルビプロストン事件)
Summary本件は、アミティーザ®24μg及び同12μgを製造販売するヴィアトリス製薬(原告)が、同12μgの承認処分に基づく存続期間延長登録によって延長された特許権の効力が同24μgの後発医薬品である沢井製薬(被告)製品の生産等にも及ぶと主張し、その差止め等を求めた事案である。本判決は、特許権の存続期間延長制度において、先後複数承認処分が存在する場合の延長特許権の効力範囲を明確に示した点で重要...
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2.裁判所の判断

知的財産高等裁判所第1部(以下「裁判所」)は、特許庁審決を支持し、沢井製薬の請求を棄却した。

進歩性について、裁判所は、まず、PGE2誘導体からPGE1誘導体へ変更する動機付けの有無について検討した。

引用例(甲3)には、15-ケト-16-ハロゲン-PG類のうち、5-6位炭素間が二重結合であるPGE2タイプを含む一定の構造を特に好ましい態様とする旨が記載されていた。

「本発明において用いられる15-ケト-16-ハロゲン-PG類は、その五員環の構造にかかわらず、あるいは二重結合やその他の置換基の有無にかかわらず、16位にハロゲン原子、特にフッ素原子が少なくとも1個以上置換することによって、エンテロプーリング作用の発現性が著しく向上するが、特に好ましい15-ケト-16-ハロゲン-PG類としては、5-6位の炭素結合が二重結合であるものあるいは炭素数が20から22までの15-ケト-16-ハロゲン-PG類である。また別の好ましい一群は、五員環上の9位にケトンを、11位に水酸基を有する、いわゆるPGEタイプの15-ケト-16-ハロゲン-PG類である。」

もっとも、裁判所は、PGE1(5-6位炭素間が単結合)とPGE2(5-6位炭素間が二重結合)は同じPG誘導体に属するとはいえ、その化学構造の差異が薬理活性に影響を及ぼし得ることは技術常識であると判断した。

「一般に、化合物の置換基や化学構造の相違がその化合物の薬理活性の有無や程度に影響を与え得ることは、技術常識であるところ、甲3には、ラット及びヒトを用いて、種々のPG類を被験薬とするエンテロプーリング作用、腸管収縮作用、腸管輸送能及び瀉下作用の試験の結果が記載されており、各被験薬の作用は大きく異なっているから、上記技術常識は、便秘の処置においても妥当することが明らかである。」

裁判所はさらに、引用例の記載全体から、PGE2誘導体である甲3発明化合物(被験薬8)が最も有望な化合物として位置付けられている点を重視した。

甲3発明化合物(被験薬8)は、甲3に記載された19種類のPG類の中でも、エンテロプーリング作用に最も優れ、かつ腸管収縮作用が軽微であるという好ましい特性を有する化合物として位置付けられていた。また、甲3が好ましい態様として挙げる「5-6位炭素間が二重結合であること」、「炭素数が20から22であること」、「9位にケトン基及び11位に水酸基を有するPGEタイプであること」という要件も全て満たしていた。

その上で裁判所は、このように引用例自体が最も好ましい化合物として位置付けたPGE2誘導体について、敢えて構造を変更してPGE1誘導体へ導く動機付けは認められないと判断した。

裁判所は次のように判示している。

「甲3発明は、甲3に記載されている実施例において被験薬とされた19種のPG類のうち、最もエンテロプーリング作用に優れ、かつ、腸管収縮作用が軽微な被験薬8(甲3のPGE2化合物)を有効成分として含有する下剤である。そして、被験薬8、すなわち甲3のPGE2化合物は、甲3において好ましいとされている「5-6位の炭素結合が二重結合」、「炭素数が20から22まで」及び「五員環上の9位にケトンを、11位に水酸基を有する」という態様を全て兼ね備えている。
そうすると、甲3の記載及び技術常識AからEまでを総合しても、甲3に記載された被験薬のうちでエンテロプーリング作用及び腸管収縮作用の点で最も効果が優れ、好ましい態様を全て備えている甲3のPGE2化合物の5-6位の炭素結合を二重結合から単結合に変換し、さらに1位のカルボキシル基をメチルエステル化して、本件PGE1化合物の構成とする動機付けを見いだすことはできないというべきである。」

なお、裁判所は、本件PGE1化合物が、モルヒネの鎮痛作用を損なうことなく薬物誘発性便秘に対する拮抗作用を発揮するという作用効果についても、当業者にとって予測困難な顕著な効果であると評価している。

以上のとおり、裁判所は、PGE2誘導体からPGE1誘導体への変更についての動機付けを否定し、本件発明の進歩性を肯定した。

実施可能要件、サポート要件及び明確性要件についても、裁判所はいずれも原告の主張を退け、特許庁審決を維持した。

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3.コメント

※初稿(8/2付)から以下の記載に修正を加えております(8/9更新)

(1)化合物発明における動機付け論

化合物発明の進歩性判断における「動機付け」を考える際には、引用例中に複数の候補化合物が存在する場合に、当業者がその中からどの化合物を出発点として選択することが合理的であったかという問題と、その出発点となる化合物から、引用例中の記載等に基づいて構造変換等を行い、本件発明の化合物に想到することが容易であったかという問題を区別して考えることができる。

本稿では、以下、この二つを便宜上、それぞれ「出発点選択」と「到着点想到」と呼ぶことにする。

本判決の興味深い点は、これらに加えて、引用例が特に好ましいものとして位置付けた化合物を出発点とした場合に、なぜ当業者がその化合物から敢えて離れて別の構造を選択するのかという視点(本稿では「出発点離脱」と呼ぶ。)を明確に意識させる点にある。

本件では、引用例(甲3)に記載された19種類のPG類のうち、甲3発明化合物(被験薬8)がエンテロプーリング作用に最も優れ、かつ腸管収縮作用が軽微な化合物として実験データにより裏付けられていた。さらに、甲3自身が「好ましい態様」とする「5-6位炭素間が二重結合」「炭素数が20から22」「PGEタイプ」という三つの構造的特徴も全て備えていた。

したがって、甲3発明化合物は、当業者にとって有力な出発点となり得る化合物として位置付けられていたといえる。

問題となったのは、甲3が「好ましい」とする三つの構造的特徴をすべて備え、実験結果においても優れた特性を示したPGE2誘導体から、敢えてPGE1誘導体へ構造を変更することを合理化する事情があるかという点である。

ここでは、便宜上、このように引用例中で実験データ及び記載上の評価によって特に優れたものとして位置付けられた化合物を「最適化合物」と呼ぶことにする。

これまでの化合物発明に関する議論では、「出発化合物からなぜ本件化合物発明の構造にしようとするのか」という問題、すなわち具体的な構造変換又は組み合わせを選択して到着点に至る道筋の合理性が問題となることが多かったように思われる。

これに対し本判決では、「最適化合物から、なぜ敢えて離れるのか」という問題が浮かび上がる。

比喩的にいえば、本稿でいう従来型の議論では「どうやってそこに到着できるのか」(到着点想到)が中心となることが多かったのに対し、本判決では、「なぜ敢えてそこから離れるのか」(出発点離脱)という視点が浮かび上がる。

ア.ピリミジン誘導体大合議判決

日本における化合物発明の進歩性判断を考える上で重要な裁判例としては、知財高裁特別部平成30年4月13日判決(平成28年(行ケ)10182号・10184号「ピリミジン誘導体事件」がある(2018.04.19ブログ記事「2018.04.13 「日本ケミファ v. 塩野義」 知財高裁平成28年(行ケ)10182; 10184」参照)。

2018.04.13 「日本ケミファ v. 塩野義」 知財高裁平成28年(行ケ)10182; 10184
知財高裁大合議判決「膨大な数の選択肢を有する一般式形式記載の化合物が引用発明となる場合とは」: 知財高裁平成28年(行ケ)10182; 10184【背景】塩野義製薬が保有していた「ピリミジン誘導体」に関する特許(第2648897号; 2017.05.28満了)無効審判請求(請求人として参加: 日本ケミファ)を不成立とする審決(無効2015-800095号)の取消訴訟。争点は、訴えの利益の有無、進歩...

同判決は、副引用例(甲2)の一般式が膨大な数の選択肢を包含していた事案において、「特定の選択肢に係る技術的思想を積極的あるいは優先的に選択すべき事情がない限り、当該特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を抽出することはできず、これを引用発明と認定することはできない」と判示した。

この事件では、主引用例(甲1)に記載された化合物を引用発明とし、副引用例(甲2)に記載された一般式中の膨大な選択肢から特定の置換基を選択してこれを適用することにより、本件発明に至ることができるかが問題となった。

その核心は、甲2の膨大な選択肢の中から、本件発明につながる特定の技術的思想を抽出して引用発明として認定できるかという点にあった。

なお、同事件では当事者双方が米国のリード化合物法理(いわゆる「出発点選択」議論)を援用したものの、大合議判決はこれを正面から採用することなく、「技術的思想」の観点から判断を行っている。この意味で、日本法が米国のリード化合物法理をそのまま受容したものではないことには留意する必要がある。

したがって、同判決は、本稿でいう「出発点選択」の先例というよりも、主引用発明を出発点として、副引用例に記載された技術的事項を組み合わせることにより本件発明に到達することが容易であったかという、「到着点想到」の問題に関する判例として位置付けるのが適切であろう。

イ.米国のリード化合物法理

米国の化学・医薬分野では、CAFC判例において、引用例中のどの化合物をリード化合物として選択するか、そのリード化合物を改変する動機付けが存在するか、さらにその改変について成功する合理的な期待があったか、といった観点から化合物発明の非自明性が検討されてきた。代表例として、Takeda Chemical Industries, Ltd. v. Alphapharm Pty., Ltd.(Fed. Cir. 2007)が挙げられる(2008.04.05ブログ記事「2007.06.28 「Takeda v. Alphapharm」 CAFC Docket No.06-1329
」参照)。

2007.06.28 「Takeda v. Alphapharm」 CAFC Docket No.06-1329
ACTOS(アクトス)米国特許侵害訴訟: CAFC Docket No.06-1329【背景】武田薬品が販売するチアゾリジンジオン系糖尿病治療薬である塩酸ピオグリタゾン(pioglitazone hydrochloride、商標名:ACTOS、アクトス)について、ジェネリックメーカーであるAlphapharm社がFDAにANDA申請したことに対し、特許権者である武田薬品が侵害訴訟を提起した。Alp...

化合物発明の非自明性分析では、当業者はそもそも引用例に記載されたどの化合物をリード化合物として選択するのかという「出発点選択」が重要となる。リード化合物としての選択を合理化する事情がなければ、その後の構造変更の動機付けを論ずるまでもなく、非自明性を基礎付け得るからである。

これに対し、本件では、出発点となる化合物自体が引用例中で実験データにより特に優れたものとして位置付けられていた。そのため問題は、どの化合物を出発点として選択するかではなく、そのように評価された化合物から、なお別の構造へ敢えて変更することを合理化する事情があるかという点に移っていた。

この点に、本判決の特徴がある。

(2)本判決の本質 ― 引用例における「最適化合物」の位置付け

本判決の特徴は、「出発点から敢えて離脱する」か否かの結論それ自体にあるというよりも、その前提として、引用例(甲3)が甲3発明化合物をどのように位置付けていたかを裁判所が重視した点にある。

甲3には、15-ケト-PG類について、5-6位の炭素結合が単結合であるPG1類、二重結合があるPG2類、さらに17-18位にも二重結合があるPG3類のいずれであってもよい旨が記載されていた。

しかし、薬効評価試験まで記載されていたのは19種類のPG誘導体についてであり、その結果、被験薬8(甲3発明化合物)がエンテロプーリング作用に最も優れ、かつ腸管収縮作用が軽微であることが実験データによって示されていた。

さらに、甲3自身が「好ましい態様」とする「5-6位炭素間が二重結合」「炭素数20〜22」「PGEタイプ」という三つの構造的特徴も全て満たしていた。

すなわち、甲3は単に15-ケト-PG誘導体を広く記載していただけではなく、その中でもPGE2誘導体である甲3発明化合物を、実験データ及び記載上の評価の双方から、特に優れたものとして位置付けていたのである。

このような引用例の記載態様を前提として、裁判所は、その化合物からPGE1誘導体へ構造変更する動機付けを認めなかった。

この点を理解するために、従来の裁判例と比較すると興味深い。

まず、ピリミジン誘導体事件大合議判決は、副引用例に記載された一般式中の膨大な候補からどの置換基を選択(抽出)し、主引用例に記載された引用発明化合物に適用して本件発明とすることができるかという、引用例から特定の技術的思想を抽出することの可否が問題となった事件であり、本件とは着眼点を異にする。

また、知財高裁平成23年(行ケ)10448号(「血管新生抑制剤」事件)判決では、「当業者が化学構造の類似性に着目して、テトラエチルアンモニウム(TEA)に代えてテトラブチルアンモニウム(TBA)を採用する着想を否定することができない」として、構造変更の動機付けを肯定した(2013.05.06ブログ記事「2012.12.19 「X v. 特許庁長官」 知財高裁平成23年(行ケ)10448」参照)。

2012.12.19 「X v. 特許庁長官」 知財高裁平成23年(行ケ)10448
エチルからブチルへの容易想到性判断: 知財高裁平成23年(行ケ)10448【背景】「血管新生抑制剤」に関する特許出願(特願2002-32844; 特開2003-238441)の拒絶審決(不服2008-28310号事件)の取消訴訟。争点は発明の進歩性の有無。請求項1(本願発明):「テトラブチルアンモニウム塩を有効成分とすることを特徴とする腫瘍細胞増殖抑制剤。」引用例1発明と本願発明との相違点は、本願...

もっとも、同事件における主引用例(引用例1)にはTEAとテトラペンチルアンモニウム(TPeA)の実験データが記載され、「50μMのTPeAがほぼ完全に細胞増殖を阻害するのに対し、20mMのTEAは細胞増殖を本来の66%に阻害することを見いだした。」とされていた。この記載からは、細胞増殖抑制作用についてはTEAよりもTPeAが優れていることがうかがわれる。

しかし、同判決では、このような優劣関係は特に議論されることなく、主引用例においてどの化合物を出発点として捉えるべきかという「出発点選択」や、最適と評価し得る化合物から敢えて別の化合物へ変更する「離脱動機付け」は争点とはならなかった。

なお、認定された引用発明1(TEA)に適用された副引用例(引用例2)には、TEAとTBAはいずれも同一機能を有する化合物として並列的に記載されており、両者の優劣を示唆する記載は存在しなかった。

そのため、この事件では、副引用例に記載された技術事項を主引用発明に適用することが容易であったかという、いわば「到着点想到」の問題が中心となっていたと理解できる。

同事件では、主引用例においてTPeAが優れた作用を示していたものの、この点は、甲3発明化合物のように「最も優れた化合物から敢えて構造を変更すること」の動機付けという問題としては論じられていない。

さらに、平成29年(行ケ)10007号(「2-ベンゾイルシクロヘキサン-1,3-ジオン」事件)判決も、副引用例を主引用発明へ適用できるか(到着点想到)が問題となった事案であり、主引用例において最適と評価された化合物から離脱する動機付けが争われた本件とは問題の所在を異にする(2018.02.05ブログ記事「2018.01.22 「バイエルクロップサイエンス v. ビ-エ-エスエフ」 知財高裁平成29年(行ケ)10007」参照)。

2018.01.22 「バイエルクロップサイエンス v. ビ-エ-エスエフ」 知財高裁平成29年(行ケ)10007
化学物質(マーカッシュ形式)に係る発明の訂正要件・実施可能要件・サポート要件・進歩性: 知財高裁平成29年(行ケ)10007【背景】ビ-エ-エスエフ(被告)が保有する「2-ベンゾイルシクロヘキサン-1,3-ジオン」に関する特許(第4592183号)の無効審判請求不成立審決(無効2015-800065)の取消訴訟。審決の理由は、本件訂正を認めた上で、実施可能要件・サポート要件違反ではなく、進歩性違反...

同事件では、主引用例(引用例1)においてベンゼン環4位の置換基は塩素に固定されていたことから、同位置がアルキルスルホニル基である化合物を開示する副引用例(引用例2)を参酌しても、引用発明1の塩素基をアルキルスルホニル基へ変更する動機付けは認められないと判断された。なお、原告が根拠として指摘した引用例2中のアルキルスルホニル基又は塩素を有する化合物は、いずれも除草活性の劣る比較薬剤例として開示されていたものであった。

このように比較すると、化合物の構造変更の容易想到性は、単に化学構造の近似性や同族体であることだけで決まるものではない。主引用例であれ副引用例であれ、引用例が候補化合物群をどのような実験的根拠に基づいて評価し、どの化合物をどのように位置付けていたかという点も、構造変更への動機付けを判断する上で重要な意味を持つことが分かる。

もっとも、管見の限り、このような「引用例において最適とされた化合物からの離脱」を中心的な問題として論じた医薬分野における日本の裁判例は見当たらなかった。もちろん、「存在しない」ことの立証は容易ではなく、今後の調査によって類似事例が見いだされる可能性はある。しかし、その留保を付したとしても、本判決は、引用例における化合物の位置付けと、そこから別の構造へ変更する動機付けとの関係を正面から検討した点に特色があると評価できよう。

(3)本判決の位置付け ― 「最適化合物の位置付け」と「離脱動機付け」

本件では、引用例における甲3発明化合物の位置付けが、19種類の被験薬についての実験データと甲3自身の「好ましい態様」に関する記載によって裏付けられていた。

そのため、裁判所は、甲3発明化合物が有する優れた特性や、甲3におけるその位置付けを踏まえてもなお、PGE1誘導体へ構造変更することを合理化する事情があるかを検討し、そのような動機付けを認めなかったものと理解できる。

もっとも、本判決の射程については慎重な検討が必要である。

本件は、19種類の被験薬について薬効試験が実施され、その結果に基づいて甲3発明化合物が特に優れたものとして位置付けられていたという事案であった。引用例が単に「好ましい」と記載するのみで比較可能なデータを伴わない場合や、候補化合物を並列的に列挙するにとどまる場合にも、同様の判断が妥当するかは、今後の裁判例の蓄積を待つ必要がある。

しかし、本判決は、化合物発明の進歩性における動機付けを検討する際に、①どの化合物を出発点として選択するのか、②その出発点から本件発明に到達することが容易なのか、そして③引用例において特に優れたものとして位置付けられた化合物から、なお別の構造へ変更することを合理化する事情があるのか、という複数の局面を区別して考える視点を示唆するものといえる。

特に、引用例に候補化合物が開示されているという事実だけでなく、その候補化合物が引用例中で実験データ等によりどのように評価され、どのような位置付けを与えられているのかという点を重視して動機付けを判断した点は、本判決の重要な特徴である。

このような視点は、今後、化合物発明の進歩性を検討する際に、引用例を読み解く上での有力な手掛かりとなる可能性がある。本判決は、引用例が特に優れたものとして位置付けた化合物から、敢えて別の構造へ離れることの合理性という観点を明確に意識させる裁判例として、化合物発明における動機付け論を考える上で興味深い一例といえるだろう。


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コメント

  1. Nori より:

    判決文によると、「本件PGE1化合物」は、甲19に構造式も記載されていた公知化合物であったけれども、甲19には、当該化合物を下剤として用いることについて記載も示唆もないから、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」を「本件PGE1化合物」に置き換えることは動機づけられないということも、原告の主張に対する判断として説示されていたのですね。

    ところで、ピポのセリフに、
    「あの時の問いには、な。」
    とありますが、話の流れからすると、
    「今回の問いには、な。」
    等としたほうが合っているような気がします。

  2. Nori より:

    ミャオのセリフに、
    「それ…
    あまり効かなかった化合物ですよね?」
    とありますが、判決文をみる限り、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」が、「薬物誘発性便秘処置用」としては、あまり効かなかったかどうかは不明ではないでしょうか。

    • Fubuki Fubuki より:

      コメントありがとうございます!
      ピポとミャオの物語にもご指摘いただきありがとうございました。
      物語の内容はフィクションです。

      • Nori より:

        ご返信ありがとうございました。

        冒頭のAIアシスタントたちの会話の内容はフィクションとはいえ、これを読んで、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」は、「薬物誘発性便秘処置用」としては、あまり効かなかったのだ、と理解する読者が多いのではないでしょうか。

        しかし、そのようなことは判決文からは読み取れず、特許権者(スキャンポ)も参加人(ヴィアトリス)も、「本件PGE1化合物」と甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」の「薬物誘発性便秘処置用」の比較試験データは提出していないようです。

        もし仮に、本件発明化合物のほうが引用発明化合物よりも優れた効果を奏するのであれば、特許権者側はそれを裏付けるデータを示す可能性が高いと思われるところ、それが提出されていないことからすると、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」も、実際に比較試験を行ってみたら、「本件PGE1化合物」と同等程度、もしかしたら、それ以上の「薬物誘発性便秘処置」の効果を奏したという可能性もあるのではないと推測されます。

        しかし、判決文では、本件訂正発明の効果について、次のように説示しています。

        『本件PGE1化合物は、その投与用量に比例して、モルヒネ又はイミプラミンによって誘発される便秘に対する拮抗作用を示すこと、同様の拮抗作用は他の下剤(センノシド又はピコスルファートナトリウム)では示されないこと、本件PGE1化合物を高用量で投与しても、モルヒネの鎮痛効果を阻害しないことを理解できるというべきであり、本件訂正発明4をはじめとする本件各訂正発明は、当業者が予測し得ない顕著な効果を奏するものであるということができる。』

        つまり、本判決は、「本件PGE1化合物」と甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」との比較ではなく、「本件PGE1化合物」が「薬物誘発性便秘処置用」に優れた効果を奏すること自体について、当業者が予測し得ない顕著な効果として評価したものといえるのではないでしょうか。

        この点についても、本事件の重要なポイントではないかと思われましたので、追加コメントさせていただきました。

        • Fubuki Fubuki より:

          読者の皆さまに誤解を生じさせるかもしれないとの懸念をご指摘してくださったのですね。ご指摘を受けまして、物語(フィクション)の内容(セリフ)を修正しました。
          効果についての説示部分の考察もコメント頂きありがとうございました!

  3. yum より:

    いつも興味深い情報をありがとうございます。すこしコメントさせてください。

    ピリミジン誘導体事件では、引用発明(主引例(甲1)に記載された化合物)を出発点とし、その置換基を副引例(甲2)に記載された膨大な置換基リストから選択して適用し、本件発明とすることができるかどうかが争点でした。

    主引例(甲1)の化合物は、有害事象で開発中断した化合物なので、これを「出発点」とすることはないというリードコンパウンドセオリーも主張されましたが、ご指摘のように、この点は大合議判決のポイントではありませんでした。

    副引例(甲2)に記載される化合物は、出発点である主引例(甲1)や本件発明の化合物とは類似はしていても、少し異なる構造のものです。

    ですので、(副引例も含めて出発点というのだと善解しても)ピリミジン誘導体事件を出発点を議論するための判決として引用するのは、少し違うかなと思いました。

    • Fubuki Fubuki より:

      ご指摘ありがとうございました!
      仰るとおりですね・・・。
      ピリミジン誘導体事件の扱い方についての記載部分を修正します。
      今後ともどうぞよろしくお願いします!

  4. Nori より:

    本事件では、特許権者(スキャンポ)は無効審判の手続中で訂正請求により有効成分を「本件PGE1化合物」のみに減縮しましたが、もし仮に、有効成分を一般式(II)の化合物としたままで、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」のみを「除く」とする訂正請求がされていたとしたら、どうでしょうか?

    第18回 審査基準専門委員会WGの配布資料「資料3 「除くクレーム」とする補正の考え方について」
    https://www.jpo.go.jp/resources/shingikai/sangyo-kouzou/shousai/kijun_wg/document/18-shiryou/005.pdf
    のスライド7「必須の構成が除かれても進歩性が否定される場合の例」に、

    『・引用発明において必須とされている構成を除く補正がなされたとしても、引用発明の発明者では
    なく、当業者にとって、さらなる改良発明等のために、当該構成以外の何らかの構成に設計変更
    を試みることは、当業者の通常の創作能力の発揮であるといえる場合がある。

    ・そして、引用発明において当該構成が必須と記載されていたとしても、その他のあらゆる構成へ
    の置換を完全に妨げるほどの強い阻害要因があったとまでは認められず、また、本願発明におい
    て当該構成を除くことに有利な効果があるとはいえない場合がある。

    ・このような場合には、現在の審査基準の考え方に従って、依然として進歩性が否定される。』

    という説明がありますが、上記のような「除く」とする訂正クレームとされた場合、本判決において進歩性の相違点1の判断で説示された「最適化合物」からの「離脱動機付け」の考え方によれば、進歩性は否定できないことになってしまいます。

    もっとも、そのような訂正がされた場合には、引用発明の有効成分を、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」のピンポイントではなく、甲3のクレームに記載されているような上位の概念で認定すれば、そもそも構造上の相違点1が存在しないか、存在しても構造変換は想到容易であり、訂正クレーム全体にわたって予測し得ない顕著な効果を奏するとはいえない、として進歩性が否定されるかもしれません。

    あくまで仮想に基づく思考実験でした。

  5. Nori より:

    補足です。

    職権主義が採用されている審判では、進歩性を「肯定」するか「否定」するかという結論に応じて、その結論に上手く到達できる論理を組めるように、主引例からどのように出発点としての「引用発明」を認定するかを(例えば、上位・中間・下位の概念など、合理的な範囲内で)、ある程度は自由に決められるところ、実務者としては、合議体による引用発明の認定を受け入れた時点で「勝負あった」となる場合もあるので、個々の事案において、何故そのような認定ができるのか争う余地がないか検討してみる必要があるのではないかと思います。

  6. Fubuki Fubuki より:

    記事中「3.コメント」の記載に修正を加えました(8/9更新)

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