Summary
知財高裁は2026年6月23日、オピオイド誘発性便秘の治療に用いるプロスタグランジン(PG)誘導体に関する特許についての無効審判請求不成立審決取消訴訟において、沢井製薬の請求を棄却した。
本件特許は、PGE1誘導体である「13,14-ジヒドロ-15-ケト-16,16-ジフルオロ-PGE1」を有効成分とする薬物誘発性便秘処置用組成物に関するものである。
裁判所は、引用発明が最も好ましいと位置付けたPGE2誘導体からPGE1誘導体へ変更する動機付けを否定し、本件発明の進歩性を肯定した。
本件特許は、ルビプロストン(アミティーザ®24μg・12μg)を保護する特許であり、これまで特許権存続期間延長登録及び延長特許権の効力範囲をめぐる紛争の対象ともなっていた。本件は、その前提となる特許の有効性が争われた事件として位置付けられる。
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夜。
研究室の明かりは、ほとんど消えていた。
十九枚の評価データ。
並べられたプロスタグランジン誘導体。
ひとつだけ、赤い丸が付いている。
「被験薬8」
結論は変わらなかった。
一番よく効く。
この化合物が最良だ。
誰も、その結論を疑わなかった。
ーーー
緩和ケア病棟。
患者が眠っている。
モルヒネによって、ようやく痛みから解放された…
…かに見えた。
「先生…。
出ないんです。」
その一言が、
研究者たちに、新たな問いを残した。
ーーー
十年後。
「ピポせんぱ~い。」
ミャオが天井を仰いだ。
「どうして、効かないんでしょう?」
ピポは答えず、一冊の古い実験ノートを取り出した。
黄ばんだページをめくる。
何度も見返したページ。
赤い丸が付いた「被験薬8」。
そのページをめくったとき、
ふと、ピポの視線は止まった。
ミャオがのぞき込む。
「それ…。」
「そう。」
ピポは静かに答えた。
最良という答えは、
問いが変われば、
最良ではなくなることがある。
ーーー
季節がいくつも過ぎた。
ある日。
「ピポせんぱ~い…。」
「出ました…。」
ミャオの声は嬉しさで震えていた。
ピポは結果を見つめ、
静かにうなずいた。
一つの発明が生まれた。
ーーー
十数年後。
知的財産高等裁判所。
静まり返った法廷。
「引用例が最良と評価した化合物から、 あえて離れる動機付けはあったのか。」
あの時あらたに生まれた問いは、 十数年の時を経て、 法廷では、 法律の言葉に置き換えられていた。
裁判長が、 静かに口を開く。
「主文…」
(※物語の内容はフィクションです)
1.背景
本件(知財高裁令和7年(行ケ)10055)は、発明の名称を「15-ケト-プロスタグランジン類を含む薬物誘発性便秘処置用組成物」とする特許第4332353号(以下「本件特許」)に対して沢井製薬が請求した無効審判(無効2023-800077号)において、特許庁が訂正を認めた上で請求不成立審決をしたため、その取消しを求めた事案である。
訂正後の請求項4は、一般式(II)で表されるプロスタグランジン(PG)誘導体のうち、「13,14-ジヒドロ-15-ケト-16,16-ジフルオロ-PGE1」を有効成分とし、オピオイド又は抗コリン作用薬による薬物誘発性便秘の処置を用途とする組成物を対象としている。
オピオイドは、がん疼痛に対して強力な鎮痛効果を示す一方、消化管への作用により便秘を高頻度に引き起こす。オピオイド誘発性便秘は通常の下剤では十分に改善できないことが多く、オピオイド拮抗薬では鎮痛作用まで低下させるおそれがあるため、鎮痛作用を維持したまま便秘のみを改善できる治療法が求められていた。本件発明は、15-ケト-PG化合物、とりわけPGE1誘導体が、オピオイドの鎮痛作用を損なうことなく薬物誘発性便秘を改善できることを見いだした点に特徴がある。
沢井製薬は、進歩性欠如に加え、実施可能要件違反、サポート要件違反及び明確性要件違反を主張したが、特許庁は請求不成立審決を行ったため、本件審決取消訴訟が提起された。
本件では複数の無効理由が主張されたものの、裁判所の判断の中心は進歩性であった。
引用例(特開平2-109号公報:甲3)には、
「本発明において用いられる15-ケト-PG類は、PG類の15位の炭素がカルボニル基を形成していればよく、5-6位の炭素結合が単結合である15-ケト-PG1類、二重結合がある15-ケト-PG2類、5-6位の炭素結合および17-18位の炭素結合がいずれも二重結合である15-ケト-PG3類のいずれであってもよい。すなわち、本発明において用いられる15-ケト-16-ハロゲン-PG類はその五員環構造にかかわらず、あるいは2重結合やその他の置換基の有無にかかわらず、16位にハロゲン原子、特にフッ素原子が少なくとも1個以上置換していればよい。」
等の記載のほか、「13,14-ジヒドロ-15-ケト-16,16-ジフルオロ-PGE2 メチルエステル」(甲3発明化合物、被験薬8)を有効成分とする下剤組成物(甲3発明)が記載されていた。本件発明の発明者は甲3に記載された発明者の一人である。
これに対し、本件発明では、甲3発明化合物のようなPGE2誘導体ではなくPGE1誘導体を採用している点、さらに、一般的な「下剤」ではなく、「オピオイド又は抗コリン作用薬による薬物誘発性便秘」の処置を目的としている点で相違していた。
とりわけ、「PGE2誘導体からPGE1誘導体への変更に動機付けがあったか」が本判決の特徴的な論点となった。
なお、本件明細書では、本件PGE1誘導体がケト型とヘミアセタール型との平衡状態で存在することが説明されている。本件PGE1誘導体はルビプロストン(lubiprostone)として知られており、本件特許はその医薬用途を保護する特許である。
本件特許は、ルビプロストン(アミティーザ®24μg・12μg)に係る一連の知財紛争の中核をなす特許でもある。筆者はこれまで、特許権存続期間延長登録事件及び延長特許権の効力範囲事件を紹介してきたが(2026.06.05ブログ記事「2026.04.09 「沢井製薬 v. スキャンポ」 知財高裁令和7年(行ケ)10059, 10064 ― 特許権存続期間延長登録成立要件における「重複論」の採用と「必要な試験」の機能的把握(ルビプロストン事件)」、2026.04.01ブログ記事「2026.03.03 「ヴィアトリス製薬 v. 沢井製薬」 大阪地裁令和7年(ワ)10786, 10790 ― 後行延長特許権の効力は先行延長の対象医薬品に及ぶか(ルビプロストン事件)」参照)、本件は、それらの前提となる特許自体の有効性が争われた事件として位置付けられる。


2.裁判所の判断
知的財産高等裁判所第1部(以下「裁判所」)は、特許庁審決を支持し、沢井製薬の請求を棄却した。
進歩性について、裁判所は、まず、PGE2誘導体からPGE1誘導体へ変更する動機付けの有無について検討した。
引用例(甲3)には、15-ケト-16-ハロゲン-PG類のうち、5-6位炭素間が二重結合であるPGE2タイプを含む一定の構造を特に好ましい態様とする旨が記載されていた。
「本発明において用いられる15-ケト-16-ハロゲン-PG類は、その五員環の構造にかかわらず、あるいは二重結合やその他の置換基の有無にかかわらず、16位にハロゲン原子、特にフッ素原子が少なくとも1個以上置換することによって、エンテロプーリング作用の発現性が著しく向上するが、特に好ましい15-ケト-16-ハロゲン-PG類としては、5-6位の炭素結合が二重結合であるものあるいは炭素数が20から22までの15-ケト-16-ハロゲン-PG類である。また別の好ましい一群は、五員環上の9位にケトンを、11位に水酸基を有する、いわゆるPGEタイプの15-ケト-16-ハロゲン-PG類である。」
もっとも、裁判所は、PGE1(5-6位炭素間が単結合)とPGE2(5-6位炭素間が二重結合)は同じPG誘導体に属するとはいえ、その化学構造の差異が薬理活性に影響を及ぼし得ることは技術常識であると判断した。
「一般に、化合物の置換基や化学構造の相違がその化合物の薬理活性の有無や程度に影響を与え得ることは、技術常識であるところ、甲3には、ラット及びヒトを用いて、種々のPG類を被験薬とするエンテロプーリング作用、腸管収縮作用、腸管輸送能及び瀉下作用の試験の結果が記載されており、各被験薬の作用は大きく異なっているから、上記技術常識は、便秘の処置においても妥当することが明らかである。」
裁判所はさらに、引用例の記載全体から、PGE2誘導体である甲3発明化合物(被験薬8)が最も有望な化合物として位置付けられている点を重視した。
甲3発明化合物(被験薬8)は、甲3に記載された19種類のPG類の中でも、エンテロプーリング作用に最も優れ、かつ腸管収縮作用が軽微であるという好ましい特性を有する化合物として位置付けられていた。また、甲3が好ましい態様として挙げる「5-6位炭素間が二重結合であること」、「炭素数が20から22であること」、「9位にケトン基及び11位に水酸基を有するPGEタイプであること」という要件も全て満たしていた。
その上で裁判所は、このように引用例自体が最も好ましい化合物として位置付けたPGE2誘導体について、あえて構造を変更してPGE1誘導体へ導く動機付けは認められないと判断した。
裁判所は次のように判示している。
「甲3発明は、甲3に記載されている実施例において被験薬とされた19種のPG類のうち、最もエンテロプーリング作用に優れ、かつ、腸管収縮作用が軽微な被験薬8(甲3のPGE2化合物)を有効成分として含有する下剤である。そして、被験薬8、すなわち甲3のPGE2化合物は、甲3において好ましいとされている「5-6位の炭素結合が二重結合」、「炭素数が20から22まで」及び「五員環上の9位にケトンを、11位に水酸基を有する」という態様を全て兼ね備えている。
そうすると、甲3の記載及び技術常識AからEまでを総合しても、甲3に記載された被験薬のうちでエンテロプーリング作用及び腸管収縮作用の点で最も効果が優れ、好ましい態様を全て備えている甲3のPGE2化合物の5-6位の炭素結合を二重結合から単結合に変換し、さらに1位のカルボキシル基をメチルエステル化して、本件PGE1化合物の構成とする動機付けを見いだすことはできないというべきである。」
なお、裁判所は、本件PGE1化合物が、モルヒネの鎮痛作用を損なうことなく薬物誘発性便秘に対する拮抗作用を発揮するという作用効果についても、当業者にとって予測困難な顕著な効果であると評価している。
以上のとおり、裁判所は、PGE2誘導体からPGE1誘導体への変更についての動機付けを否定し、本件発明の進歩性を肯定した。
実施可能要件、サポート要件及び明確性要件についても、裁判所はいずれも原告の主張を退け、特許庁審決を維持した。
3.コメント
※初稿(8/2付)から修正を加えております(赤字部分。8/5更新)。一定期間後に修正を反映(修正履歴をクリア)する予定です。
(1)化合物発明における動機付け論
化合物発明の進歩性判断において、「動機付け」はこれまで主として出発点選択の問題として論じられてきた。すなわち、引用例中に複数の候補化合物が存在する場合に当業者がその中のどの化合物を出発点として選択することが合理的であったかという問題と、その引用発明(出発点)から引用例中の記載等に基づいて当業者が構造変換又は組み合わせにより本件化合物発明の構造(到着点)に想到するかという問題として論じられてきたである。
本判決の特徴は、このような従来の「出発点選択」後者の問題をではなく、引用例が最適と位置付けた出発化合物からの離脱動機付けという視点を正面から検討した点にある。
本件では、引用例(甲3)に記載された19種類のPG類のうち、甲3発明化合物(被験薬8)がエンテロプーリング作用及び腸管収縮作用の点で最も優れた化合物として実験データにより裏付けられており、さらに甲3自身が「好ましい態様」とする構造的特徴を全て備えていた。そのため、当業者が同化合物を出発点とすること自体には、実質的な争いはなかった。
問題となったのは、引用例自身が最適化合物として位置付けたPGE2誘導体から、あえてPGE1誘導体へ構造変更する離脱動機付けが認められるかという点である。
従来の裁判例が実務では主として「どの化合物を出発点として選択するか出発化合物からなぜ本件化合物発明の構造にしようとするのか」という問題を、具体的な構造変換又は組み合わせを選択する道筋の合理性に求めることが多かったように思われるところ扱ってきたのに対し、本判決は、そもそも「最適化合物からなぜ離脱するのか」という別個の動機付けを問題とした点に特色がある。
比喩的にいえば、従来の議論ではが「どうやってそこに到着できるのかどの扉から研究を始めるか」(到着点想到型)がを中心であったに論じてきたのに対し、本判決は、「最も有望と評価された扉を開けた後、なぜあえて出発する別の方向へ進むのか」(出発点離脱型)がを問われうた判決であったといえる。
ア.日本のリーディングケース ― ピリミジン誘導体大合議判決
日本におけるこの化合物発明分野の動機付けを扱ったリーディングケースとしては、知財高裁特別部平成30年4月13日判決(平成28年(行ケ)10182号・10184号「ピリミジン誘導体事件」でがある(2018.04.19ブログ記事「2018.04.13 「日本ケミファ v. 塩野義」 知財高裁平成28年(行ケ)10182; 10184」参照)。

同判決は、副引用例(甲2)の一般式が約2,000万通りともいわれる膨大な選択肢を包含していた事案において、「特定の選択肢に係る技術的思想を積極的あるいは優先的に選択すべき事情がない限り、当該特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を抽出することはできず、これを引用発明と認定することはできない」と判示し、引用発明としての適格性を否定した。
これは典型的な出発点から「どうやってそこに到着できるのか」を選択の問題としたものであり、争点は「膨大な候補の中から、当業者が特定の選択肢(置換基)化合物を選択する合理的理由があったか」にあった。
なお、同事件では当事者双方が米国のリード化合物法理を援用したものの、大合議判決はこれを正面から採用することなく、「技術的思想」の観点から判断を行っており、日本法が米国のリード化合物法理をそのまま受容したものではないことにも留意する必要がある。
イ.米国のリード化合物法理
米国では、KSR Int’l Co. v. Teleflex Inc.(2007年)事件判決以降、化合物発明の自明性判断は、①リード化合物の選択、②当該リード化合物を改変する動機付け及び成功の合理的予見可能性、という二段階の分析枠組みとして整理されている。代表例として、Takeda Chemical Industries, Ltd. v. Alphapharm Pty., Ltd.(Fed. Cir. 2007)が挙げられる(2008.04.05ブログ記事「2007.06.28 「Takeda v. Alphapharm」 CAFC Docket No.06-1329
」参照)。

もっとも、この枠組みにおいても、最初に問題となるのは、どの化合物をリード化合物として選択するかという出発点選択である。リード化合物としての適格性が否定されれば、その後の構造変更の容易想到性を論ずるまでもなく非自明性が肯定され得る。
これらケースに対し、本件では、出発点となる化合物自体は引用例中で実験データにより最適であることが裏付けられていたため、問題は出発点の選択ではなく、その最適化合物から離脱する動機付けの有無へと移っていた。この点に、本判決の特徴がある。
(2)本判決の本質 ― 引用例における「最適化合物」の位置付け
本件の特徴は、「離脱動機付け」という結論それ自体にあるというよりも、その前提として、引用例(甲3)が甲3発明化合物をどのように位置付けていたかを、裁判所が重視した点に本判決の本質がある。
甲3には、「本発明において用いられる15-ケト-PG類は、PG類の15位の炭素がカルボニル基を形成していればよく、PGE1類、PGE2類、PGE3類のいずれであってもよい」等、15-ケト-PG誘導体の多様な構造態様ついて記載されていた。
しかし、薬効評価試験まで記載されていたのは19種類のPG誘導体についてであり、その結果、被験薬8(甲3発明化合物)がエンテロプーリング作用に最も優れ、かつ腸管収縮作用が軽微であることが実験データによって示されていた。さらに、甲3自身が「好ましい態様」とする「5-6位炭素間が二重結合」「炭素数20〜22」「PGEタイプ」という三つの構造的特徴も全て満たしていた。
すなわち、甲3は単に15-ケト-PG誘導体を記載していただけではなく、その中でもPGE2誘導体である甲3発明化合物を最適化合物として積極的に位置付けていたのである。
このような引用例の記載態様を前提として、裁判所は、当業者がその最適化合物からPGE1誘導体へ構造変更する動機付けを認めなかった。
この点を理解するために、従来の裁判例と比較すると興味深い。
まず、ピリミジン誘導体事件大合議判決は、副引用例(甲2)に記載された一般式中の膨大な候補からどの置換基を化合物を引用発明(技術的思想)として選択(抽出)して適用し、本件発明とすることができるかという、出発点から「どうやってそこに到着できるのか」「出発点選択」の問題を扱った事件であり、本件とは着眼点争点構造を異にする。
また、知財高裁平成23年(行ケ)10448号(「血管新生抑制剤」事件)判決では、「当業者が化学構造の類似性に着目して、テトラエチルアンモニウム(TEA)に代えてテトラブチルアンモニウム(TBA)を採用する着想を否定することができない」として、構造変更の動機付けを肯定した(2013.05.06ブログ記事「2012.12.19 「X v. 特許庁長官」 知財高裁平成23年(行ケ)10448」参照)。

もっとも、同事件における主引用例(引用例1)にはTEAとテトラペンチルアンモニウム(TPeA)の実験データが記載され、「50μMのTPeAがほぼ完全に細胞増殖を阻害するのに対し、20mMのTEAは細胞増殖を本来の66%に阻害することを見いだした。」とされていた。この記載からは、細胞増殖抑制作用についてはTEAよりもTPeAが優れていることがうかがわれる。
しかし、同判決では、このような優劣関係は特に議論されることなく、主引用例においてどの化合物を出発点として捉えるべきかという「出発点選択」や、最適と評価し得る化合物からあえて別の化合物へ変更する「離脱動機付け」は争点とはならなかった。
なお、認定された引用発明1(TEA)に適用された副引用例(引用例2)には、TEAとTBAはいずれも同一機能を有する化合物として並列的に記載されており、両者の優劣を示唆する記載は存在しなかった。
そのため、この事件の本質は、副引用例に記載された技術事項を主引用発明へ適用できるかという点(到着点想到型)にあったと理解できる。
仮に、引用例1における実験結果を踏まえてTPeAを「最適化合物」と位置付け、その化合物からあえて離脱してTBAへ変更する動機付けの有無という観点から議論されていたとすれば、結論は異なっていた可能性も考えられる。
さらに、平成29年(行ケ)10007号(「2-ベンゾイルシクロヘキサン-1,3-ジオン」事件)判決も、副引用例を主引用発明へ適用できるか(到着点想到型)が問題となった事案であり、主引用例において最適と評価された化合物から離脱する動機付けが争われた本件とは問題の所在を異にする(2018.02.05ブログ記事「2018.01.22 「バイエルクロップサイエンス v. ビ-エ-エスエフ」 知財高裁平成29年(行ケ)10007」参照)。

同事件では、主引用例(引用例1)においてベンゼン環4位の置換基は塩素に固定されていたことから、同位置がアルキルスルホニル基である化合物を開示する副引用例(引用例2)を参酌しても、引用発明1の塩素基をアルキルスルホニル基へ変更する動機付けは認められないと判断された。なお、原告が根拠として指摘した引用例2中のアルキルスルホニル基又は塩素を有する化合物は、いずれも除草活性の劣る比較薬剤例として開示されていたものであった。
このように比較すると、構造変更の容易想到性は、単に化学構造の近似性や同族体であることだけで決まるものではない。主引用例であれ副引用例であれ、引用例が候補化合物群をどのような実験的根拠に基づいて評価し、位置付けていたかという点も、構造変更への動機付けを判断する上で重要な意味を持つことが分かる。
もっとも、管見の限り、このような「引用例において最適とされた化合物からの離脱」を中心的争点として論じた医薬分野における日本の裁判例は見当たらなかった。もちろん、「存在しない」ことの立証は容易ではなく、今後の調査によって類似事例が見いだされる可能性はある。しかし、その留保を付したとしても、本判決は、引用例における最適化合物の位置付けと、そこから離脱する動機付けとの関係を正面から論じた点に特色があると評価できよう。
(3)本判決の位置付け ― 「最適化合物の位置付け」と「離脱動機付け」
本件では、引用例における甲3発明化合物の位置付けが実験データによって客観的に裏付けられていたことから、裁判所は、その化合物から離脱するためには独立した動機付けが必要であると判断したものと理解できる。
もっとも、本判決の射程については慎重な検討が必要である。
本件は、19種類の被験薬について薬効試験が実施され、その結果に基づいて最適化合物が選択されていたという特殊な事案であった。引用例が「好ましい」と記載するのみで比較可能なデータを伴わない場合や、候補化合物を並列的に列挙するにとどまる場合にも、同様の判断が妥当するかは今後の裁判例の蓄積を待つ必要がある。
しかし、本判決は、化合物発明の進歩性の動機付け判断において、「出発点選択」、「到着点想到」と「出発点離脱動機付け」とを区別して検討する視点を示唆するとともに、引用例に候補化合物が開示されているという事実だけでなく、実験データに基づき当該化合物がどのように位置付けられているかを重視して動機付けを判断した点に特徴がある。
このような視点は、今後の化合物発明の進歩性判断において、引用例の記載内容を分析する際の有力な手掛かり視点となる可能性がある。本判決は、化合物発明の進歩性判断における動機付け論に新たな分析視点を提示唆した裁判例として、今後の裁判実務や学説においても参照される価値を有するものと思われる。
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コメント
判決文によると、「本件PGE1化合物」は、甲19に構造式も記載されていた公知化合物であったけれども、甲19には、当該化合物を下剤として用いることについて記載も示唆もないから、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」を「本件PGE1化合物」に置き換えることは動機づけられないということも、原告の主張に対する判断として説示されていたのですね。
ところで、ピポのセリフに、
「あの時の問いには、な。」
とありますが、話の流れからすると、
「今回の問いには、な。」
等としたほうが合っているような気がします。
ミャオのセリフに、
「それ…
あまり効かなかった化合物ですよね?」
とありますが、判決文をみる限り、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」が、「薬物誘発性便秘処置用」としては、あまり効かなかったかどうかは不明ではないでしょうか。
コメントありがとうございます!
ピポとミャオの物語にもご指摘いただきありがとうございました。
物語の内容はフィクションです。
ご返信ありがとうございました。
冒頭のAIアシスタントたちの会話の内容はフィクションとはいえ、これを読んで、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」は、「薬物誘発性便秘処置用」としては、あまり効かなかったのだ、と理解する読者が多いのではないでしょうか。
しかし、そのようなことは判決文からは読み取れず、特許権者(スキャンポ)も参加人(ヴィアトリス)も、「本件PGE1化合物」と甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」の「薬物誘発性便秘処置用」の比較試験データは提出していないようです。
もし仮に、本件発明化合物のほうが引用発明化合物よりも優れた効果を奏するのであれば、特許権者側はそれを裏付けるデータを示す可能性が高いと思われるところ、それが提出されていないことからすると、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」も、実際に比較試験を行ってみたら、「本件PGE1化合物」と同等程度、もしかしたら、それ以上の「薬物誘発性便秘処置」の効果を奏したという可能性もあるのではないと推測されます。
しかし、判決文では、本件訂正発明の効果について、次のように説示しています。
『本件PGE1化合物は、その投与用量に比例して、モルヒネ又はイミプラミンによって誘発される便秘に対する拮抗作用を示すこと、同様の拮抗作用は他の下剤(センノシド又はピコスルファートナトリウム)では示されないこと、本件PGE1化合物を高用量で投与しても、モルヒネの鎮痛効果を阻害しないことを理解できるというべきであり、本件訂正発明4をはじめとする本件各訂正発明は、当業者が予測し得ない顕著な効果を奏するものであるということができる。』
つまり、本判決は、「本件PGE1化合物」と甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」との比較ではなく、「本件PGE1化合物」が「薬物誘発性便秘処置用」に優れた効果を奏すること自体について、当業者が予測し得ない顕著な効果として評価したものといえるのではないでしょうか。
この点についても、本事件の重要なポイントではないかと思われましたので、追加コメントさせていただきました。
読者の皆さまに誤解を生じさせるかもしれないとの懸念をご指摘してくださったのですね。ご指摘を受けまして、物語(フィクション)の内容(セリフ)を修正しました。
効果についての説示部分の考察もコメント頂きありがとうございました!
いつも興味深い情報をありがとうございます。すこしコメントさせてください。
ピリミジン誘導体事件では、引用発明(主引例(甲1)に記載された化合物)を出発点とし、その置換基を副引例(甲2)に記載された膨大な置換基リストから選択して適用し、本件発明とすることができるかどうかが争点でした。
主引例(甲1)の化合物は、有害事象で開発中断した化合物なので、これを「出発点」とすることはないというリードコンパウンドセオリーも主張されましたが、ご指摘のように、この点は大合議判決のポイントではありませんでした。
副引例(甲2)に記載される化合物は、出発点である主引例(甲1)や本件発明の化合物とは類似はしていても、少し異なる構造のものです。
ですので、(副引例も含めて出発点というのだと善解しても)ピリミジン誘導体事件を出発点を議論するための判決として引用するのは、少し違うかなと思いました。
ご指摘ありがとうございました!
仰るとおりですね・・・。
ピリミジン誘導体事件の扱い方についての記載部分を修正します。
今後ともどうぞよろしくお願いします!
本事件では、特許権者(スキャンポ)は無効審判の手続中で訂正請求により有効成分を「本件PGE1化合物」のみに減縮しましたが、もし仮に、有効成分を一般式(II)の化合物としたままで、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」のみを「除く」とする訂正請求がされていたとしたら、どうでしょうか?
第18回 審査基準専門委員会WGの配布資料「資料3 「除くクレーム」とする補正の考え方について」
https://www.jpo.go.jp/resources/shingikai/sangyo-kouzou/shousai/kijun_wg/document/18-shiryou/005.pdf
のスライド7「必須の構成が除かれても進歩性が否定される場合の例」に、
『・引用発明において必須とされている構成を除く補正がなされたとしても、引用発明の発明者では
なく、当業者にとって、さらなる改良発明等のために、当該構成以外の何らかの構成に設計変更
を試みることは、当業者の通常の創作能力の発揮であるといえる場合がある。
・そして、引用発明において当該構成が必須と記載されていたとしても、その他のあらゆる構成へ
の置換を完全に妨げるほどの強い阻害要因があったとまでは認められず、また、本願発明におい
て当該構成を除くことに有利な効果があるとはいえない場合がある。
・このような場合には、現在の審査基準の考え方に従って、依然として進歩性が否定される。』
という説明がありますが、上記のような「除く」とする訂正クレームとされた場合、本判決において進歩性の相違点1の判断で説示された「最適化合物」からの「離脱動機付け」の考え方によれば、進歩性は否定できないことになってしまいます。
もっとも、そのような訂正がされた場合には、引用発明の有効成分を、甲3の「PGE2化合物(被験薬8)」のピンポイントではなく、甲3のクレームに記載されているような上位の概念で認定すれば、そもそも構造上の相違点1が存在しないか、存在しても構造変換は想到容易であり、訂正クレーム全体にわたって予測し得ない顕著な効果を奏するとはいえない、として進歩性が否定されるかもしれません。
あくまで仮想に基づく思考実験でした。
補足です。
職権主義が採用されている審判では、進歩性を「肯定」するか「否定」するかという結論に応じて、その結論に上手く到達できる論理を組めるように、主引例からどのように出発点としての「引用発明」を認定するかを(例えば、上位・中間・下位の概念など、合理的な範囲内で)、ある程度は自由に決められるところ、実務者としては、合議体による引用発明の認定を受け入れた時点で「勝負あった」となる場合もあるので、個々の事案において、何故そのような認定ができるのか争う余地がないか検討してみる必要があるのではないかと思います。